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ニコニコボックスの歴史

「ニコニコボックス」

不思議な名前と思い、調べましたら、ロータリークラブ創成期に東京ロータリークラブで活躍された関幸重氏が広められたことが分かりました。

その後、関幸重氏と私の家内の祖父母との不思議なご縁も分かりました。

一昨年亡くなった義父の遺品を整理しておりましたら、関幸重氏の写真が出てまいりましたので、米山梅吉記念館様、東京ロータリークラブ事務局様にも問い合わせをし資料を探しておりましたら、米山梅吉記念館様から関幸重氏とのご縁とニコニコボックスについて記念館報への寄稿を勧められ、このほど2021年秋号として発刊されました。

その原稿を掲載させて頂きます。

目次

ニコニコボックスの関幸重氏と祖母すぎ・祖父秀夫  ~そして三島高等女学校

三島大社の神官の娘を母として生まれ、この三島の地に所縁の深い米山梅吉氏。

ここ静岡県駿東郡長泉町上戸狩に米山梅吉記念館はあります。

この記念館にほど近い三島駅の北側に三島北高等学校があります。

この学校は、明治34年に三島の小松宮別邸敷地の中に田方郡立三島高等女学校として創立され、大正11年に静岡県立三島高等女学校となった伝統ある学校で、昭和24年に三島北高等学校となりました。

当時、地区随一の高等女学校として三島一伊豆長岡など、この地方の女子高等教育を担いました。
(下記写真は、三島北高等学校年史より)

大正時代の三島高等女学校

駿豆鉄道 三島⇔伊豆長岡・大仁

三島高等女学校が創立された頃、大仁・伊豆長岡と三島駅(現在の下戸狩駅。当時の東海道線は御殿場回りで現在の三島駅は丹那トンネル開通後設置)を結ぶ豆相鉄道が開業し、その後、電化され駿豆鉄道となり現在の伊豆箱根鉄道駿豆線となりました。

東京からの便利が良くなったことから、多くの湯治客が伊豆長岡温泉を訪れ、また、駿豆鉄道の開通で伊豆長岡から三島に高等教育を受けに行く学生も増えてきました。

伊豆長岡古奈の旅館『本陣』の四人姉妹の三女であった当クラブに在籍している天野恭子の祖母である「石橋すぎ」は大正8年(1919年)4月、三島高等女学校に入学いたしました。

当時は、小松宮別邸、現在の三島駅南の楽寿園に三島高等女学校はありました。

<大正時代の長岡温泉古奈 旅館『本陣』>
<四人姉妹 前列右が祖母>

伊豆長岡温泉古奈の旅館『本陣』の娘であった「石橋すぎ」は、明治40年3月17日に生まれ、大正8年4月に三島高等女学校に入学し、大正12年3月に21回生として卒業いたしました。

実家の『本陣』は、伊豆長岡温泉古奈でも歴史ある旅館で、東京からも多くのお客様が訪れ、大正時代のモダンガール、モダンボーイで一杯でした。

『本陣』の常連のお客様の中に、東京・日本橋の羅紗問屋『植村伝助商店』の大番頭、関幸重氏がいらっしゃいました。

三島高等女学校を卒業した「すぎ」は、行儀・作法習得のため上京し、関幸重氏宅で勉強することとなりました。

<三島高等女学校時代の祖母すぎの制服姿>

『植村伝助商店』は、戦前、東京日本橋にあった羅紗問屋で、明治28年に三越洋品店を三越から譲渡されるなど、三越、三井物産との関係の深い会社で、当主は植村伝助を襲名しておりました。

当時は、明治20年3月生まれで慶應義塾大学理財科を卒業された植村伝助氏が当主で、子爵諏訪忠元氏次女の廣子さんを妻とし、東京の高額納税者になるなど大きく発展していました。

植村伝助氏と双子の妹であったテルさんは、神奈川県立第一高等女学校(岸恵子さん、草笛光子さん、の出身校で、現在の横浜平沼高校。妻の恭子も卒業生)を卒業し、植村伝助商店の大番頭であった関幸重氏と結婚いたしました。

上京した「すぎ」は、関幸重・テル夫妻に大変かわいがっていただき、行儀・作法を身に着けていきました。祖母すぎは、とても言葉遣いが丁寧な人でありました。

植村伝助商店当主の植村伝助氏は、子爵諏訪家の次女が嫁がれるほどのお家で、米山梅吉氏は大和高取藩植村家中の和田竹造氏と三島大社神官日比野氏の娘うたの子、和田梅吉として出生し米山家の御養子になられましたが、和田家主君の高取藩植村氏と植村伝助氏が、ご親類であったかは不明です。

植村伝助商店は、羅紗問屋として時代の先端商品を取り扱っており、当主はじめ幹部社員もモダンボーイが多い会社でした。

植村伝助商店が羅紗問屋であったのは戦後直後までで、植村伝助氏の四男の植村秀氏は、『シユウ ウエムラ』としてハリウッドで世界的なメーキャップアーティストとして著名になり、更に時代の先端に行かれました。

現在は、ご子息の植村浩氏が化粧品の株式会社ウトワを立ち上げられています。

祖母すぎを子供のように可愛がって頂いた植村伝助商店の大番頭の関幸重・テル夫妻は、植村伝助商店社員で野球やスキーとスポーツ万能であった平野秀夫をすぎと引き合わせ、仲人として東京出雲大社での結婚式を取り仕切られました。

<祖父母、秀夫・すぎ結婚式写真 仲人関幸重・テル夫妻 東京出雲大社 写真は有賀写真館>

<昭和5年頃ですが、関幸重氏は羅紗問屋の大番頭だけあって、ハイカラな洋装です。>

関幸重氏は、植村伝助商店の大番頭として、また東京ロータリークラブ会員(大正15年9月7日入会)
として活躍されました。

祖父母の結婚式の時には、東京ロータリークラブ会員であられました。

関幸重氏は、『ニコニコボックス』の創始者といえる方で、東京ロータリークラブ事務局様から頂きました資料によりますと、大阪ロータリークラブの方が考えられたものをより大きく広げられたものです。

昭和11年(1936年)9月30日、社会事業委員の関幸重氏が、関東大震災の孤児300名を玉川園に招くために、例会で協力を求め、小箱を持って寄付を集め、この箱を『ニコニコボックス』と名づけられました。

当初は紙箱でしたが、関幸重氏が自ら恵比須顔を彫り込んだ木箱を考案され三越百貨店で特製されました。

<関幸重氏のニコニコボックス>

関幸重氏は、例会のたびに、会員の誕生日やお祝い事や慶事に際して善意の寄付を集め、えびす顔で社会奉仕の喜びを表しました。

「にこにこおじさん」として関幸重氏が、社会奉仕のためにご尽力された「ニコニコボックス」は今では、国内のロータリークラブの多くに広がっています。

関幸重氏の奉仕の志は、全国のロータリークラブで今も綿々と受け継がれています。

<愛知ロータリーEクラブのニコニコボックス>

関幸重氏が、祖母すぎと祖父秀夫の縁を結び、義父秀和が生まれ長女の恭子と私が結婚し、長男長女に恵まれました。

私たちにとっては、関幸重氏こそが、ご縁を紡ぐ恵比寿様であったと思います。

ロータリークラブのニコニコボックスの由来をたまたま義父に話をしていたところ、関幸重氏とのご縁が分かりましたが、義父が旧制芝中学2年の時、東京空襲で白金台の自宅が罹災した際も、関幸重氏が住居を直ぐにお世話頂くなど、まさに慈愛の方でありました。

義父は一昨年他界いたしましたので、更に詳しく話を聞くことが出来ませんでしたが、遺品を整理していたところ、祖母の実家や三島高等女学校時代の写真や仲人の関幸重氏の写真が出てまいりました。

祖父母も義父も御殿場の富士霊園で眠っていますが、大正時代からの関幸重氏とのご縁を感じ、妻・恭子も今年度よりロータリークラブに入会いたしましたので、夫婦でより一層ロータリアンとして奉仕活動を行っていきたいと思います。

<ニコニコボックスの関幸重氏のことを伝えたく本稿を寄稿いたしました。>

私が、米山梅吉記念館・館報に寄稿いたしましたのは以上ですが、館報の次頁には更にニコニコボックスのことが書かれています。

2021年秋号・館報は、国内全てのロータリークラブに送付されています。

また、米山梅吉記念館のホームページからも見ることが出来ますので、是非ご覧ください。

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