
2026年7月15日(水)第449回WEB例会
開会点鐘・歌の斉唱
会長挨拶

26-27年度会長
小田純也(おだ じゅんや)
小田愛知友愛RCの第449回の例会になります。
前回、7月1日(水)は新年度の初のWeb例会を。
そして、7月4日(土)は対面での初回例会を実施しました。
そして、7月9日(木)は江南ロータリークラブさんへ牧ケ野幹事と表敬訪問に伺い、7月14日(火)には瀬戸北ロータリークラブさんへ表敬訪問をさせていただきました。
江南ロータリークラブさんへ
表敬訪問

瀬戸北ロータリークラブ
表敬訪問

7月14日(火)は瀬戸北ロータリークラブさんの例会会場である「瀬戸商工会議所」での表敬訪問の後、すぐに「クラブ活性化セミナー」へ参加するために、名古屋駅へ向かいました。
各クラブの会長・幹事さん・委員長・事務局は、この時期は、とても忙しい時期だと思います。
当クラブの場合は、初回例会の準備やクラブ計画書の完成(今週中に東尾張分区のロータリークラブとガバナー事務所へ発送)、ホームページの更新などで大忙しの時期でした。
さらに、今週、7月18日(土)は共和西子ども幸齢者交流センターにて奉仕活動を実施してきます。
一時期は「Eクラブだから、ネットでやってるだけの人たちだけでしょ?」と思われていた時期もありました。
しかし、コツコツとクラブ活動・奉仕活動・公共イメージ向上活動(ホームページ更新)や中部経済新聞の掲載などをコツコツと会員の皆さんでやってきたおかげで、
最近はオンラインもリアルも両方行う「今時のハイブリッド型のロータリークラブ」だという認識になっていただいてきたように思えます。
さて、話は変わりますが、先週はビジネスをやっている人にとっては大きなニュースがありました。
加盟店20万店も持つクレジットカード決済代行会社「全東信(ぜんとうしん)」が破産をしたニュースです↓
負債額はなんと「約1259億」今年最大規模のようです。
もしかしたら、このページをご覧になられている方も、利用されていた方がいらっしゃったかもしれませんね。
こういうニュースを見ると「やっぱり現金が第一だ」「クレカなんて邪道だ」と思われる人もいるかもしれませんが、個人的にはそういった閉鎖的な考えてになっていただきたくありません。
ロータリーにしろ、ビジネスにしろ、何か活動していれば、必ず不測の事態というのが存在します。
実際に経営をしている方、お勤めになられている方、どちらの方も、順風満帆で居続けられる人というのは、実はそうは居ないんじゃないかと思います。
それこそ、山があれば、谷がある。
それが、人生だと思っていますので、良い時こそ、良いところばかりを見るのではなく、「何か穴はないのか?」「大丈夫なのか?」という見るクセを。
逆に悪い時があったとしても、ずっと悪い状況が続く訳ではありませんから、そういう時こそ、良い点に目を向けられるようになってみてはいかがでしょうか。
幹事報告

愛知友愛ロータリークラブ26-27年度幹事の牧ケ野です。
下記に幹事報告を致します。
◎ジャパンロータリーポータルサイト(ご確認ください)
マイロータリーよりも情報が見やすいです。
https://www.japanrotary.club/home
ベルマーク教育助成財団のホームページに当クラブが掲載されました
2026年7月18日(土)奉仕活動
会場:共和西子ども幸齢者交流センター
9:50 集合
10:00ー11:30 奉仕活動
11:30-12:00 移動
12:00ー13:30 親睦会
2026年8月22日(土)親睦例会
会場:久屋大通庭園「フラリエ」
13:00 集合 奉仕活動
14:15ー15:15 理事会、15:30ー16:30例会
17:00ー19:00 親睦BBQ
2026年9月5日(土)植栽例会
会場:久屋大通庭園「フラリエ」
9:00 集合 奉仕活動(名城大学ボランティア協議会)
11:00ー12:00 例会(食事付き)
【2026年】
7月4日(土)朝9時~ 初回例会(場所:フラリエ)
メークアップ&スマイル
7/1~7/14までに、31名の方にメークアップを頂きました。
鈴木杏奈様、横山要範様、白石裕司様、長谷川智一様、安田幸雄様、芦田透様、大矢伸明様、鈴木元和様、藤原和彦様、新美俊生様、奥野櫻子様、清水良保様、千賀文男様、岡田晃一郎様、落合時夫様、石田寛様、原田立朗様、大岡信仁様、勝木務様、塩之谷香様、豊田貴久様、伊藤覚様、角谷広高様、水上保徳様、近藤浩司様、加藤英二様、井上清美様、高野清隆様、高橋眞也様、安井元司様、尾崎秀典様
小田誠にありがとうございます。クラブを代表しましてお礼申し上げます。
※ご投稿頂いたあとにお支払いをされていないと証明書が発行出来ません。
メークアップをして、決済したにも関わらず「証明書が来ない」などありましたら、こちらからお知らせください。
卓話:「真田太平記(池波正太郎)」を読んで

卓話者:牧ヶ野孝宏
こんにちは、26-27年度幹事の牧ヶ野です。一年間色々とお世話になりますが、宜しくお願い申し上げます。
さて、幹事ということで、初回の小田会長の卓話に続き第二回目の例会で登場することになりました。
昨年度までは、中国上海滞在時の中国旅行記をお話してきましたが、今回から2回(2回目は8/19予定)に渡って「真田太平記(池波正太郎)」とそれに関する私の現場検証をお話したいと思います。
真田太平記の冒頭は、1582年(天正10年)の武田家が滅亡に向かう信州「高遠城」の攻防から始まります。
武田方として戦に加わった向井佐平次(のちの佐助の父)を真田の女忍者(草の者)「お江(ごう)」が救出する場面です。
ここで、事前に読めるなら読んで欲しい本を3冊ご紹介します。(私は真田太平記を読んでいて疑問に思ったことを調べるうちに、これらの本に到達しました(笑))
- 「関東戦国史(北条vs上杉55年戦争の真実)/黒田基樹」(角川ソフィア文庫)
学校の教科書で戦国時代は、織田信長が桶狭間の戦い(1560年)で京を目指す今川義元を倒し、武田信玄の急死、長篠の戦い(1575年)で鉄砲を使った近代戦術で武田勝頼を破り、上杉謙信も急死、武田家衰退・滅亡・・という流れになっているかと思います。
しかしながら、長篠の戦い後、勝頼は引き継いだ信玄の領地を、北は謙信死後の上杉の後継者争い(御館の乱1578年)に乗じて信玄悲願の川中島周辺を獲得、東は真田の活躍で上州沼田周辺、南は大井川を超えて高天神城周辺まで獲得して、武田家として最大の領地拡大を成し遂げています。

(永禄11年(1569)末情勢図)
一方で上杉謙信は、永禄3年(1560年)に沼田城へ侵入し、関東管領の立場で関東各地の国衆と談合し、永禄10年(1567年)まで8回に渡り、冬に三国峠を越え関東に侵攻し、年を越して春から夏に帰国するパターンで北条を攻め、最大で小田原城を囲む戦いをしています。
上杉・北条・武田の大大名による国衆の獲得合戦の方が、戦国時代を表している様な気がします。
- 「まぼろしの城(上杉・武田・真田に翻弄された悲劇の城)/池波正太郎」(新潮文庫)
上州沼田城を巡る物語です。
①で述べた真田の沼田進出は1580年になりますが、その前の城主沼田家を中心に描いた物語です。
真田というと信州上田城を想起しますが、上田城の築城は1583年になり、真田太平記では2巻以降に登場します。
真田家の出生は詳しく分からないようですが、武田信玄の配下として有名な「武田24将」に真田昌幸の父(幸隆)と兄(信綱)が入っています。
信玄の指示により、上田周辺を拠点としていた信州の村上家の居城「砥石城」を調略し、北条からは「岩櫃城」を奪取し、上杉の関東進出に備える拠点として沼田方面を睨んでいたと思われます。
沼田城は真田家が後々徳川(第一次上田合戦)・北条との争いで領地問題となり、1589年豊臣秀吉の裁定により北条に引き渡され、利根川を挟んだ名胡桃城まで真田家が撤退し境界となりました。
これを北条が奪取したことが契機となり、秀吉の北条征伐が行われます。

(真田家の関連城図)


(砥石城)

(岩櫃城)
*岩櫃・砥石城とも険しい山城です。
岩櫃城は、昼にビールを一杯飲んで向かいましたが、「熊注意」の看板を眺めながら何とか本丸に到達できました。
一方、砥石城は、小説では、さほど険しくなく簡単に攻めることができる城のように感じました。
また、大河ドラマ「真田丸」の関係で観光整備され、上田中心部近くの小山程度を想定して向かいましたが、急激な山城の一直線の登りがきつく、本丸で出会った人も「死ぬかと思った!」と話され、同感に思いました。
砥石城の全容は、本丸から更に尾根伝いに本城・支城が繋がっており、「こりゃ無理だ」と諦めて帰ってきました。
③「歴史作家の城巡り/伊東潤」(幻冬舎新書)
作家の伊東氏が、関東と甲信の古城を巡り、歴史とともに語る力作です。
紹介されるお城は、関東に住んでいて、熊騒動がなければ、歴史を学びつつ全踏破したいと思いました。
この本の面白さは、「高遠城」「新府城」「大島城」のなかで「勝頼こそ戦国時代最強の侍大将」と評しながら、滅亡に向かう武田家を勝頼はどうすべきであったか?を問うているところです。
長篠の戦いの後、武田家にまだ領土を拡大できる余力があるなかで、遠江国から全面撤退し大井川以西の高天神城等を放棄、力を温存すべきであった。
その上で古参重臣たちとの関係を再構築し、危機に対する防衛方法を検討すべきであった。
領土拡大と防衛拠点として新府城築城を同時に進めたことで、財政と兵力が疲弊し、家臣団への兵力増強と課税強化を要求せざるを得ないこととなりました。
更に高天神城を見捨てて壮絶な落城となったことで家臣団から信用を失うこととなった、と指摘しています。
真田太平記の冒頭は、織田軍三万の軍勢に対して、高遠城の支場で堅固に思える大島城が戦わずして守備兵が逃走、高遠城を守る兵三千のみで籠城する話です。
勝頼は一万の軍勢で新府城から諏訪に後詰めに向かいますが、突然信州を放棄して新府城に戻ります。
武田24将の一人「穴山梅雪」が裏切ることで駿河戦線が崩壊し甲斐本国が危うくなったからです。
真田昌幸が岩櫃城への退避を勧めますが、正室が北条から来ていることと、古老である内山田信茂(武田24将)を頼り大月の岩殿城へ向かいます。
しかし信茂が変心、笹子峠を封鎖され(異説あり)武田家の古寺天目山を目指しますが、途中織田軍に追いつかれ自害してしまいます。

(大島城)

(高遠城)

(新府城)

(天目山)
本能寺の変が起きたのは1582年6月で武田家滅亡のわずか三か月後です。
歴史にもしもはありませんが、
1)もし拡大戦略を縮小し駿河戦線を固めていれば、
2)大島城がもう少し籠城戦を頑張っていれば、
3)昌幸の勧めで岩櫃城に向かっていれば、
4)内山田の裏切りがなく岩殿城に入れば、
名門武田家は、まだこの時代で活躍の場があったと思われます。
次回(8/19)は、私が最も面白いと感じた「関ヶ原の戦い」前の「お江」の活躍(もちろん池波正太郎の創作ですが)を中心に現場検証をお話します。



